律法の完成者 主イエス
キリスト降誕に起こったこと
人間ペトロ
預言
疑いの眼差しで


律法の完成者 主イエス

※注:この節の記述は古くに書いたもので、既に私の信仰と異なっている部分がありますが、律法のインデックスとして公開しています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 (マタイによる福音書5章17~19節)

十戒


 神はこれらすべての言葉を告げられた。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 隣人に関して偽証してはならない。
 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
(出エジプト記20章1~17節)

 感謝の歩みとしての律法

 ハイデルベルク信仰問答には、十戒をキリスト者の感謝の歩みとして捉えています。

律法


 律法は出エジプト記、12章43節~13章16節、20章~31章、レビ記、民数記8章~9章14節、15章、18,19章、28~30章、33章51節~36章、申命記5章~31章に記されています。

右の欄に記した数字は以下のカテゴリーに当てはまると考えられるものです。

00:十戒
01:第一戒について述べられたもの
02:第二戒について述べられたもの
03:第三戒について述べられたもの
04:第四戒について述べられたもの
05:第五戒について述べられたもの
06:第六戒について述べられたもの
07:第七戒について述べられたもの
08:第八戒について述べられたもの
09:第九戒について述べられたもの
10:第十戒について述べられたもの
11:イスラエルの共同体に互助関係または貧富格差を起こさないための掟
12:清いものと汚れたものに関する掟
13:近親婚の禁止
14:性的交錯を戒める掟
15:身体を傷つけることを戒める掟
16:神殿の形状に関する規定
17:神殿での行いに関する規定
18:祭司の身なりに関する規定
19:儀式の規定
20:王に関する規定
21:礼拝の形としての献げ物
22:和解の献げ物
23:悔い改めを促すための献げ物
24:敵と敵以外の民族の区分け
25:刑法
26:民法
27:神を愛すること
28:隣人を愛すること
29:休耕についての掟
30:神の業を記念させるための掟・イスラエルの民への祝福
31:被造物への慈愛
99:主イエスの死と復活の贖いを前もって踏まえた神の指示

以上のカテゴリーは以下の大分類に集約できると言えるでしょう。

Ⅰ.主イエスの死と復活の贖いを前もって踏まえた神の指示(21,22,23,99)

 神に生贄を献げるという習慣は、イスラエルの民に限ったことではなく、周囲の部族たちもそれぞれの神々に生贄を献げていました。ホセア書には以下のように記されています。

 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。
 (ホセア書6章6節)

 神がこの生贄という習慣をご自身への礼拝に用いたことには、主イエスが、全き生贄として献げられる、というご自身のご計画の内に入っていたものと考えられます。
 血を飲んではならないという掟は、主イエスの血による贖いと対比されるべき神の与えた律法であると考えられます。
 命の代償金についての掟は主イエスの贖いに取って変えられました。

Ⅱ.十戒(00,01,02,03,04,05,06,07,08,09,10)

 掟として定められた律法は、教会の誕生と共に、信仰生活における感謝の歩みとして規範になりました。

Ⅲ.イスラエルの民を繁栄させるという主の約束に必要な律法(11,12,13,14,15,20,25,26,29)

 共同体の互助、衛生管理、近親婚の禁止、性的交錯の禁止、自傷の禁止、民を見下さない王、法、休耕は、全てイスラエルの民族の繁栄に有益なものでした。
 また、主イエスは死に打ち勝たれた柔和な王として、教会の頭、王となってくださっているのです。  新しい神の民の拡大には、伝道が必要です。しかし、働いてくださるのは神なのです。(cf.コリントの信徒への手紙一15章10節)

Ⅳ.神の民が好意を寄せられるために必要な律法(24,28)

 新しい神の民の体である教会もまた、周囲から好意を得ていなくては、伝道が遮られてしまいます。

Ⅴ.二大律法(27,28,31)

 被造物に対する配慮もまた、愛の業であると言えるでしょう。

Ⅵ.礼拝(17,18,19)

 キリストの後も教会という形で神を礼拝しています。

Ⅶ.神を覚える記念、祝祭、祝福(30)

 御子イエスの死と復活との贖い、つまり、洗礼と、その贖いを覚えることとして聖餐が定められています。
 また、礼拝においては祝福派遣が執り行われます。
 クリスマス、イースター、ペンテコステの日がキリスト教会での三大祝祭と言えるのではないでしょうか。

 つまり、律法全体は、キリストに在る教会において、新しい形で守られているのです。(後述:cf.使徒言行録2章43~47節)
  
小見出し 聖書箇所 カテゴリー
過越祭について 出エジプト記12章17~51節 30
初子の奉献 出エジプト記13章1~2節 27
除酵祭 出エジプト記13章43~17節 30
初子について 出エジプト記13章11~17節 27
十戒 出エジプト記20章1~21節 00
祭壇について 出エジプト記20章22~26節 02
奴隷について 出エジプト記21章1~11節 11
死に値する罪 出エジプト記21章12~18節 06
身体の傷害 出エジプト記21章18~32節 25
財産の損傷 出エジプト記21章33~36節 26
盗みと財産の保管 出エジプト記21章37節~22章14節 25,26
処女の誘惑 出エジプト記22章15~16節 26
死に値する罪 出エジプト記22章17~19節 01,02
人道的律法 出エジプト記22章20~26節 26
祭儀的律法 出エジプト記22章27~30節 03
法廷において 出エジプト記23章1~3節 09
敵対する者とのかかわり 出エジプト記23章4~5節 26
訴訟において 出エジプト記23章6~9節 09
安息年 出エジプト記23章10~11節 29
安息日 出エジプト記23章12~13節 04
祭りについて 出エジプト記23章14~19節 30
違反に対する警告 出エジプト記23章20~33節 24,30
幕屋の設計・仕様・常夜灯の指示 出エジプト記25章2節~27章21節 16
祭司の祭服・装具 出エジプト記28章1~43節 18
祭司聖別の儀式 出エジプト記29章1~37節 19
日ごとの献げ物 出エジプト記29章38~46節 19
香をたく祭壇 出エジプト記30章1~10節 16,19
命の代償 出エジプト記30章11~16節 99
手足を清める 出エジプト記30章17~21節 16,19
聖別の油 出エジプト記30章22~33節 19
香料 出エジプト記30章34~38節 19
技術者の任命 出エジプト記31章1~11節 16
安息日を厳守せよ 出エジプト記31章12~17節 04
焼き尽くす献げ物 レビ記1章 21
穀物の献げ物 レビ記2章 21
和解の献げ物 レビ記3章 22
贖罪の献げ物 レビ記4章1節~5章13節 23
賠償の献げ物 レビ記5章14~26節 23
各種の献げ物の施行細則 レビ記6、7章 19
清いものと汚れたものに関する規定 レビ記11章 12
出産についての規定 レビ記12章 12
皮膚病 レビ記13章 12
清めの儀式 レビ記14章1~32節 12
家屋に生じるかび レビ記14章33~54節 12
男女の漏出による汚れと清め レビ記15章 12
献げ物をささげる場所 レビ記17章1~15節 19
血を飲むな レビ記17章10~16節 99
いとうべき性関係 レビ記18章 14
聖なる者となれ レビ記19章 01~09,28
死刑に関する規定 レビ記20章 01,05,13,14
祭司の汚れ レビ記21章 07,12,15
聖なる献げ物について レビ記22章 03,11
主の祝祭日 レビ記23章 30
常夜灯 レビ記24章1~4節 19
十二個のパン レビ記24章5~9節 19
神の御名を冒涜する者 レビ記24章10~23節 04,25
安息の年とヨベルの年 レビ記25章 11,29,30
偶像を拝んではならない レビ記26章1~2節 02
祝福と呪い レビ記26章3~46節 27,30
献げ物 レビ記27章 11,27
燭台のともし火皿 民数記8章1~4節 19
レビ人の清めの儀式 民数記8章5~22節 19
レビ人の任期 民数記8章23~26節 19
月遅れの過越しの規定 民数記9章~14節 30
献げ物に関する補則 民数記15章1~31節 19
安息日の違反 民数記15章32~36節 04
衣服の房 民数記15章37~41節 30
献げ物の規定 民数記28章、29章 19,30
誓願の規定 民数記30章 26
ヨルダン川を渡るにあたっての命令 民数記33章50~56節 11,24
イスラエルの嗣業の土地 民数記34章1~15節 11
レビ人の町 民数記35章1~8節 11
逃れの町 民数記35章9~34節 25
相続人が女性である場合の規定 民数記36章 11
十戒 申命記5章1~22節 00
神の言葉を取り次ぐ者 申命記5章23~33節 00
唯一の主 申命記6章1~15節 01,27
主の命令を守ること 申命記6章16~25節 30
七つの民を滅ぼせ 申命記7章1~5節 24
神の宝の民 申命記7章6~15節 30
恐れるな 申命記7章16~26節 30
神の賜る良い土地 申命記8章1~10節 30
主を忘れることに対する警告 申命記8章11~20節 27
かたくなな民 申命記9章 27
神が求められること 申命記10章12~22節 27
主の御業 申命記11章1~12節 27
祝福と呪い 申命記11章13~32節 27,30
礼拝の場所 申命記12章1~12節 24
犠牲の肉と血 申命記12章13~28節 99
異教の礼拝に対する警告 申命記12章29~13章1節 02
他の神々の礼拝に対する警告 申命記13章2~19節 02
禁止されている行為 申命記14章1~2節 15
清い動物と汚れた動物 申命記14章3~21節 12
収穫の十分の一に関する規定 申命記14章22~29節 21
負債の免除 申命記15章1~11節 11
奴隷の解放 申命記16章12~18節 11
初子の規定 申命記16章19~22節 19,99
三大祝祭日 申命記16章1~17節 30
正しい裁判 申命記16章18~20節 09
正しい礼拝 申命記16章21節~17章7節 19
上告について 申命記17章8~13節 25
王に関する規定 申命記17章14~20節 20
レビ人および祭司に関する規定 申命記18章1~8節 11,30
異教の習慣に対する警告 申命記18章9~14節 02
預言者を立てる約束 申命記18章15~22節 99
逃れの町 申命記19章1~13節 11,24
地境の移動 申命記19章14節 11
裁判の証人 申命記19章15~21節 09
戦争について 申命記20章 30
野で殺された人 申命記21章1~9節 11,99
捕虜の女性との結婚 申命記21章10~14節 07
長子権について 申命記21章15~22節 11
反抗する息子 申命記21章23~21節 05
木にかけられた死体 申命記21章22~23節 99
同胞を助けること 申命記22章1~4節 28
ふさわしくない服装 申命記22章5節 14
母鳥と雛鳥 申命記22章6~7節 31
屋根の欄干 申命記22章8節 11
混ぜ合わせてはならないもの 申命記22章9~11節 31
衣服の房 申命記22章12節 30
処女の証拠 申命記22章13~21節 07
姦淫について 申命記22章22節~23章1節 07
会衆に加わる資格 申命記22章2~9節 24
陣営を清く保つこと 申命記22章10~15節 12
逃亡奴隷の保護 申命記22章16~17節 28
神殿で禁じられていること 申命記23章18~19節 07
利子 申命記23章20~21節 11
誓願 申命記23章22~24節 99
人の畑のもの 申命記23章25~26節 11
再婚について 申命記24章1~4節 26
人道上の規定 申命記24章5~22節 28,30
鞭打ち 申命記25章1~3節 25
脱穀する牛の保護 申命記25章4節 31
家名の存続 申命記25章5~10節 11
組み打ちの場合 申命記25章11~12節 25
正しい秤 申命記25章13~16節 08
アマレクを滅ぼせ 申命記25章17~19節 24
信仰の告白 申命記26章1~15節 30
神の民 申命記26章16~19節 30
石に掟を書き記せ 申命記27章1~8節 30
呪いの掟 申命記27章9~26節 30
神の祝福 申命記28章1~14節 30
神の呪い 申命記28章15~66節 27
モアブで結ばれた契約 申命記28章67節~30章20節 30
七年ごとの律法の朗読 申命記31章9~13節 30
神の最後の指示 申命記31章14~29節 30

教会によって守られる律法


 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(使徒言行録2章43~47節)

 
前述したように、律法の本質は、教会の誕生と共に、喜びをもって完全に引き継がれたのです。
 柔和な王、主イエス・キリストを頭とする共同体が生まれ、神を礼拝し、パンを裂き、ぶどう酒を分け、周囲の人々に好意を寄せられて伝道の働きがなされていったのです。今日在る教会も互助と住民から好意を寄せられていく姿が良いと思われます。しかし、人の前の教会か、神の前の教会か、ということに対しては決して揺らぐことがあってはならないのです。この神の前に跪く教会においてのみ、主イエス・キリストによって立てられた新しい契約において律法が全うされるのです。


キリスト降誕に起こったこと



 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書2章1~20節)

 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。
(レビ記12章1~8節)

 住民登録のためにおのおの自分の町へ旅立った、というのは皇帝の勅令としてはあまりにも愚かな行為で国勢調査のために国力が衰えてしまう、という否定的な説がありますが、エジプトで発見されたパピルス片には、2世紀の住民登録のものですが、本当に故郷に帰る勅令が記されているそうです。しかし、だから記述がすべて正しいと言うよりは、これは、ダビデの出身地であるベツレヘムで出産をした、ということの前説ではないでしょうか。聖霊によって御子イエスを宿したナザレ出身のマリアが何故ベツレヘムで出産したのか。何故同郷のヨセフが共にベツレヘムに居たのか。ヨセフもマリアも聖霊の導きのままに、旧約聖書の預言が成就するために、臨月ぎりぎりのところでベツレヘムに向かったのではないでしょうか。主イエスが飼い葉桶のなかで布に包まって寝かされていたのは、出産の迫ったマリアが宿で子を出産すると、ベッドが汚れると宿屋の主は考えたのでしょう。レビ記12章には、出産した女性は汚れている、と書かれているのです。この汚れは出血による汚れであり、神が衛生上の規定として定めたものだと考えられます。故に宿の主は宿の中で子を生むのを避けたのではないでしょうか。また、もし貸した部屋で出産があっても、1, 2か月もの間の十分な宿代は取れそうにないと思ったでしょう。少なくとも、律法を知っている人が読めばそのような想像が膨らむであろうように聖書のこの記述は書かれているのです。

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 現在を生きるわたしたちにとって、占星術師というのは、何か、まじないごとをする、クリスチャンにとっては頼ってはならない者たち、という思いを抱くのではないでしょうか。しかし、主イエス誕生の時代には、この占星術こそ、最先端の科学だったのです。天文学者、と言っても過言ではありません。占星術師が東方から来た、そして、3節、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々もまた同様であった。」というのは、大変皮肉なことです。遥か東方から来た占星術者たちが、救い主メシアを待ち望んでいた一方で、ユダヤ人は、自分たちの王に君臨する方の誕生に狼狽したのです。ここに、いかに当時のユダヤ人が自己保身に走っていたか、ということが読み取れるのです。律法学者たちは、ヘロデ王の勅命により、聖書を読みあさり、一つの解答を導き出します。6節に書かれている、ベツレヘム、というのがその答えでした。この預言が記されているのは、ミカ書5章1節です。

エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

この預言と、律法学者の解答には、決定的な違いがあります。ミカ書の預言には「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と書かれています。マタイの2章6節にはそれが記されていません。永遠の昔からおられる方、つまり、このユダヤ人の王が、神の子であることに、律法学者たちは目を留めなかった、ということなのです。ここにおいて、わたしたちは、主イエスの成人してからの歩みの苦しみ、そして受難を思わされるのです。
 ヘロデ王は、占星術者たちを「わたしも行って拝もう」と嘘をついたうえで派遣します。占星術者たちは、11節にあるように黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました。この3つの贈り物は全て貴重で高価なものです。その中で、黄金は、最高の金属であり、主への礼拝にふさわしいものでした。乳香は、モーセの時代には神に捧げる物であり、また、当時ユダヤにおいては、王となるべき者に捧げる物でした。没薬は、古代エジプトではミイラを作る際に欠かせないものであり、当時のユダヤにおいても使者を葬るときに使われていた物です。実際、主イエスが墓の中に収められたときにも用いられたことがヨハネによる福音書19章39節に記されています。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持って来た。」と記されているのです。これらのものを占星術者たちが捧げたのは、彼らが主イエスのご生涯を聖書の預言によって知っていて捧げたのか、あるいは、神からの啓示だったのかは解りません。この、マタイによる福音書は、主イエスが主であり、王であり、かつ、葬られる者であることだけを見つめているのです。
 この後の聖書の記述にも、神の御意志が語られています。15節、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」、とはホセア書11章1節の、

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

という預言の成就です。18節は、エレミヤ書31章15節、

主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから」

という預言の成就です。さらに、23節、
「彼はナザレの人と呼ばれる」とは、イザヤ書11章の預言と結びついています。旧約聖書に直接ナザレという町の名前は出てきません。比較的新しくできた町だったようです。ナザレという町は当時軽んじられていたようです。ヨハネによる福音書1章46節では、ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったことが記されています。同じようにエッサイの株、根株といった表現はエッサイの息子ダビデ王、孫ソロモン王の栄光のかげりゆく衰弱した子孫、といった意味で旧約聖書の預言に現れているのです。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。
(イザヤ書11章1節~10節)

 主なる神は、出エジプト記に記されたエジプトからのイスラエルの救いを御子イエスの身に辿らせることで、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」(使徒言行録2章22節)である、ということを、わたしたちに解り易く示してくださっているのです。イエスという人は自分の力で預言を実現しようと、痩せ我慢をして苦悩の生涯をおくられたのではありません。自分自身では何もできない嬰児(みどりご)の時から、預言を成就されていらっしゃるのです。このことこそ、イエスが救い主であることの完全な証拠なのです。

 それゆえ、わたしの主が御自ら
 あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
 その名をインマヌエルと呼ぶ。
 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで
 彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
(イザヤ書7章14,15節)
 主イエスが、凝乳と蜂蜜を食べて育ったという記述は新約聖書には出ません。しかし、「おとめが身ごもって、男の子を産み」、という預言と15節の預言とは、まさに一体なのです。
 ヨセフの許婚のマリアは、普段我々が想像しているよりも、遥かに若かったかも知れないのです。許婚は、当時のユダヤにおいては幼少の頃に定められていたのです。また、女性が初潮を迎える時期は、時代時代の栄養状態により、かなりの変遷があったようです。受胎告知において、マリアは処女であった、というばかりか、月経すら始まっていなかったのかもしれないのです。ルカによる福音書2章22節から40節には以下の記述がなされています。

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 シメオンもアンナも、幼子主イエスを見たとき、この子はメシアだ、と気付かされたのは聖霊のお働きによるものです。しかし、それに加えてはっきり幼子を主イエスだということを知るしるしがあったのかも知れないのです。それは母マリアがあまりにも若かったということであったのかもしれません。イザヤ書7章15節がそれを示しています。幼子主イエスは、母乳を飲むことが出来なかった、マリアの体はまだ母乳が出るような成長に達していなかったのではないか、とわたしは思うのです。


引き渡される夜に起こったこと



 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。  イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
 『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊は散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
(マルコによる福音書14章12~42節)

 ペトロの豪語を考える時、彼自身主イエスの言った言葉が全て実現するのを身をもって知っていたにもかかわらず、一体どうしてそんなことを言ったのだろう、とわたしは感じます。ヨハネによる福音書の中で、ペトロが主イエスに頭も体も洗ってください、と言って主イエスにたしなめられたことが記されています。このマルコによる福音書の記述では、主イエス御自身がぶどう酒を弟子たちにお渡しになったことになっています。ペトロは、主の杯をおかわりしていたのかも知れません。主イエスに弟子たちが眠ってしまったことも考え合わせても、弟子たちはユダの裏切りに対する義の興奮のあまり、かなりぶどう酒を飲んでしまっていたようにも思われます。そして、熱情にほだされながら、意気盛んに詩編の歌を歌いつつオリーブ山に登って言ったのではないでしょうか。どんな歌だったかは知る由もありません。しかしわたしは、ここのシーンでは、士気を鼓舞するような神への賛美を歌ったのではないかと思うのです。例えば詩編136編のように。

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
神の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
ただひとり驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
英知をもって天を造った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
大地を水の上に広げた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
大きな光を造った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
エジプトの初子を討った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
イスラエルにその中を通らせた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
強大な王たちを討った方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
彼らの土地を嗣業として与えた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
僕イスラエルの嗣業とした方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
低くされたわたしたちを御心に留めた方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
天にいます神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
(詩編136編)

 しかし、ゲッセマネに行かれる主は、ただひとりご自分の飲むべき杯を心に留めつつ、哀しい歌を頭にリフレインさせていたかも知れません。例えば詩編22編のように。

わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。
だがあなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方。
わたしたちの先祖はあなたに依り頼み依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出されあなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」
わたしを母の胎から取り出しその乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
母がわたしをみごもったときからわたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
雄牛が群がってわたしを囲みバシャンの猛牛がわたしに迫る。
餌食を前にした獅子のようにうなり牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。
口は渇いて素焼きのかけらとなり舌は上顎にはり付く。
あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
犬どもがわたしを取り囲みさいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。
わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。
(詩編22編)

 主イエスは、弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い。」と、弟子たちに憐れみをかけられます。この言葉は「霊は燃えていても、人間は弱い。」とも訳すことのできる言葉です。この言葉は、必死に祈られる主イエスご自身にも返ってきた言葉なのではないでしょうか。主の苦しみは、ただ死に対する苦しみではありません。罪のない神の子がひとたび父なる神に絶縁され、罪人の一人として数えられること、律法で木にかけられた人間の死は呪われた死であることを見通し、全ての人の罪を背負うことに対する苦しみなのです。弟子たちは眠っていました。ここで主イエスは、ただひとり、孤独の中で十字架を背負うことになったのです。
 しかし、このことは、父なる神の御心だったのではないでしょうか。主イエスが40日間、荒野でサタンの誘惑と戦って勝たれるという試練を受けられましたが、それでも足りないほどの苦しみだったのではないでしょうか。申命記21章22~23節に記されている「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」と定められた律法も、御子イエスによる贖いの完成のために前もって準備されたものだったのではないでしょうか。その苦しみを堪えて、主イエスが「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と、ご自身の腹を決め、弟子たちに呼びかけたのではないでしょうか。


人間ペトロ



イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5章1~11節)

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。ここに人間ペトロの素直な心が記されています。しかし、イエスに出会うまで、ペトロが何らかの犯罪を犯していたのではないでしょう。この召命において、既に御聖霊が、ペテロに罪を悔い改めよ、と語る主イエスの言葉に目を向けさせ、召命の準備が整えられていたと考えるべきでしょう。マタイ伝やマルコ伝にはこの魚の記述はありません。この二つの福音書は、何もかも捨ててすぐにイエスに従った使徒たちの姿を宣べ伝え、ルカは、漁の逸話を用いて、奇跡的なことが起こるまで心が動かされない人間の鈍感さと、自ら「わたしは罪深い者なのです」と告白する、神と人間との関係を描こうとしたのではないでしょうか。闇は光に照らされることによって初めて、その汚らわしさがあらわにされるのです。人間はもともと光を恐れ、ゴキブリのように急いで暗闇に隠れてしまうような存在なのです。わたしたちが神に祈りを捧げるとき、まず、動機付けとして御聖霊の働きがあり、全能の父なる神に、仲立ちをしてくださっているイエス・キリストの御名をと通して、祈りを捧げるのです。直接主イエスの御業が目の前でなされたとき、「主よ、わたしから離れてください」と、恐れおののき、遠ざけようとしてしまうのです。わたしたちの回心は180度の転回なのです。それは、自力では決してできないことです。わたしたちは、先に主を招くのではなく、主イエス・キリストがわたしたちを招いてくださっているのです。

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14章22~33節)

 この箇所でもペトロの人間としての弱さが示されています。しかも、この箇所は、イエスを「幽霊だ」と言い、さらに、自ら求めた水上の歩行からも、突風が来ると、恐れて水に沈みそうになる、といった「恥の上塗り」をしているのです。しかし、これはわたしたちにこそなおさら、当てはまることではないでしょうか。わたしなら、水に一歩も足を湖上に乗せることすらできなかったことでしょう。ペトロは率直かつ大胆にイエスに願い出たのです。主イエスはペトロの信仰もご理解されたうえで「来なさい」とおっしゃったのです。それは、ペトロがイエスに願い出たことが、湖上を歩くことがあまりに驚きであり、自分の心の弱さの故に願った願いだったからです。決して、主イエスの力を試そうと思って願い出た奇跡のしるしではなかったからです。わたしたちのだれもが、主の御力を試したり、他人を陥れるようないのりで無いならば、主の御心に叶う祈りは聴いてくださるのです。わたしたちは大胆に祈ってよいのです。「わたしの薄い信仰を、もっと強いものにさせてください」でよいのです。そして、絶望的に見えるこの世の平和を祈ってよいのです。わたしたちは主の祈りの中で「御国を来たらせ給え。御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈ります。わたしたちは主の祈りにおいて既に主の再臨と世界の平和を祈っているのです。

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。(マタイ17章1~8節)

 クリスチャンの原点はイエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信じることです。ペトロは使徒たちの先鞭を切って開口一番、イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白しました。主イエスはペトロに答えて、その中でこうおっしゃっています。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロはまだ見ぬ十字架の贖いに先立って、イエスが救い主であると告白したのです。ペトロがイエスがメシアであると告白したのは、ペトロ自身の思いではなく天から使わされた父なる神によるものだ、ということです。ペトロはまだ、メシアがどのようにして世を救うのかを知りませんでした。イスラエルの多くの信者もまた、救世主はローマ帝国の圧政からイスラエルの民を救い出す、政治的な王こそがメシアだと思っていたのです。この後、イエスがそのような王ではなく、イスラエルの始祖、アブラハムに与えられた選民としての旧い契約を捨て、むしろ、イスラエルの腐敗を断罪し、全世界の民に福音をもたらす新しい契約を立てる平和の王として君臨することに反逆し、主イエスを十字架につけてしまったのです。逆説的なことに、この死と復活の贖いによって全世界の民に福音をもたらす新しい契約が立てられたのです。これが主の御計画であり、御子イエスが、異邦人であるわたしたちの救いとなってくださったのです。

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコ9章2~8節)

 ここで、ペトロは、頓珍漢な発言をしてしまいます。イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ったのに、預言者エリヤ、エジプトからの奪還の指導者モーセと並べてイエスを位置づけてしまったのです。ペトロのメシア観もまた、モーセがエジプトからイスラエルの民を救い出したように、ローマ帝国の圧政からイスラエルを救い出す強い帝王をイメージしていたのかもしれません。それは、人間として仕方の無いこととも言えましょう。わたしたちが天国を想像できないように、主イエスのメシアとしての救いの御業もまた、世界で誰一人としてはっきり知ることはできなかったでしょう。しかし、主イエスの贖いは、旧約聖書においてことごとく預言されていたことなのです。新旧約聖書全てが、主イエス・キリストを証していると言っても過言ではないでしょう。ペトロは理論的には破綻しながらも、主に愛され、主を愛す信仰によって主の恩恵を受けていたのです。

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」(ヨハネ13章1~9節)

 ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったり、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言ったりと、まるで子供のように主イエスの愛を求めています。その両極端の間に主イエスの言葉があります。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」です。おそらくは、ペトロはこの一言によって、両極端な発言をしたのではないでしょうか。「主イエスと共にいたい」という、その一心でイエスにすがりつきたかったのだといえるでしょう。主イエスは、ファリサイ派や民衆が強い王として君臨されるのだと思われているばかりか、イエスの弟子たちもまた、そのような期待と自分が大臣になることを夢見ていたことを知っておられたのでしょう。主御自身が弟子たちの足を洗うことによって、人のしもべとなるように模範を示されたのです。そこに、主イエスのまことの愛があったのです。そして互いに愛し合いなさいと、お示しになったのです。この愛の精神は主が昇天された後、初代教会の礎として、ペトロ、ヨハネ、パウロの宣教の核になったのです。そこに来て、弟子たちは主イエスが弟子たちの足を洗うことの本当の意味を思い出させられるのです。わたしたちは既に福音を知らされています。主イエス・キリストの新しい契約と救いを知っています。ですからなおのこと互いに愛し合うべきなのです。

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。(ヨハネ13章21~26節)

 ここで、ペトロはヨハネに合図しました。この箇所に「イエスの胸もとに寄りかかったまま」という言葉が出てきます。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はあまりにも有名ですが、当時の食卓は、椅子もテーブルもありませんでした。イスラエルの当時の民は、腹ばいになって、ひじを付き、頭を上げて、食事をしていたのです。ですからレオナルドの絵のように一列に座ることもなく、円陣になって「食卓」を囲み、ペトロはヨハネに合図をし、ヨハネはイエスの胸元に寄りかかっていて、イエスは直接ユダにパン切れを浸して渡すことができたのです。とにかくも、ペトロはヨハネに合図するような間柄であり、「そんな奴は取っちめてやる」というような意気込みでイエスの言葉を聴いていたのでしょう。ここに「人間」を代表する態度が示されています。自分の判断で裁き、自分の力で何とかしようとする心です。主御自身が天の父なる神の意思を優先し、これから十字架に架けられようとする、最後の晩餐においても、人はこのようにして主人公を主イエスではなく自分を主人公にしてしまうのです。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタイ26章31~46節)

 人間には、自力ではどうにもならないことがあります。預言の成就ならなおさらのことです。主イエスの生涯は、預言を成就させていく歩みでした。それは、預言者を通して語られたメシアとしての歩みであり、それはことごとく父なる神の御心だったのです。それが福音なのです。ペトロがいくら頑張ってみせても、預言は必ず成就するのです。今を生きるわたしたちにとって、残された預言とは、主の再臨であり、審きです。永遠の命です。火の滅びであり、永遠の地獄です。「三度わたしのことを知らないと言うだろう」というこの御言葉は、わたしたちにも向けられているのです。父・御子・御霊をしらないと言う者は、父・御子・御霊に「しらない」と言われるのです。主イエスがゲツセマネで祈られたとき、ペトロをはじめ、弟子たちは眠ってしまいました。「心は燃えても、肉体は弱い。」むしろ、心を燃やして敵を討つべし、と意気込んで神経が尖らせていたが故に、神経を使い果たし、暗闇の中で寝てしまっていたのかもしれません。最後の晩餐でユダが出て行った後に、「腹が減っては戦はできぬ」と、多少飲み過ぎたのかもしれません。どちらにせよ、どちらでもないにせよ、人間の弱さを痛感させらざるを得ない、聖書箇所です。ヨハネの福音書だけ、14章から17章にかけてイエスが語られた内容が詳細に載せられています。逆にこの眠りについての記述はありません。脱線しないように、この箇所について語ることを今は避けておきましょう。

シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18章10~11節)

 やはり、ペトロは起き上がると再びヴォルテージが上がったようです。無血で済むところに血を落とさせてしまいました。主イエスはこのマルコスという手下の耳を元通りになされました。このペトロがしてしまったことは、わたしたちと無縁ではありません。部族間の争い、宗教的対立などにより、人間は人間を殺し合い、無駄な血を流させるのです。クリスチャンはそんなことはしない、と思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。イスラム教国の中でイスラム原理主義の軍事政権があるように、アメリカ合衆国でも福音派という一派があり、「イスラムを叩きのめして、主イエスの再臨を早めよう、それこそ主イエスの再臨の道を整え、再臨を早める正義なのだ」と戦争への道を扇動する一派があるのです。言い換えれば「キリスト原理主義」と言ってもよいかもしれません。原理主義の根本には「愛の欠如」と「選民とされたことを自ら誇る態度」があります。本当に主の愛を受け入れていないのです。そして自分が信者であることを、神の恵みによるのではなく、さも自ら獲得したかのように思い、また振舞うのです。原理主義からは遠い存在だ、と自分が思っていても、信仰生活の中で自分を主人公に仕立て上げてしまうことは無いでしょうか。このことこそが、主に対して犯す最大の罪なのです。主を礼拝し、主に罪を知らされたらいつでも悔い改めて主に立ち返らなくてはならないのです。

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26章69節~75節)

 預言は成就されました。エルサレムの人からするとガリラヤの人が話す言葉は訛っていた、かなりはっきりとわかるような方言だったそうです。ここで注目したいのは「激しく泣いた」ことです。ユダのように裏切ってしまったと思ったかもしれません。しかし、ここでペトロは悔いるのです。悔いて嘆いて激しく泣いたのです。もう主イエスは法廷で裁かれていました。もう主イエスに許しを請うことすら叶わないかもしれない、愛し愛されていた主イエスに何ということを言ってしまったのだろう。刃で射し抜かれたような気持ちになったことでしょう。鶏の一声に、そこまで思いつめて泣くペトロに、その人間性を見ることができるのです。アダムは実を食べたことをエバに責任転嫁し、エバは蛇に責任転嫁をしました。父なる神はアダムにもエバにも蛇にも罰を与えました。そして、アダムとエバに皮衣を与えなさったのです。父なる神は義の神であり、かつ、愛の神なのです。そして御子に人類の罪を背負わせ、十字架の死と復活によってわたしたちを赦してくださっているのです。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20章1~20節)

 主イエスが復活して初めに姿を見せられたのは十二人の弟子たちではなく、マグダラのマリアでした。このマリアはカトリック教会から長い間、娼婦の汚名を着せられていましたが、いまは、バチカンも誤りを認めています。復活の主はマグダラのマリアを派遣して、復活の勝利を弟子たちのもとへと伝えさせたのです。ペトロの召命は終わってしまったのでしょうか。まだこれから起こる「人間をとる漁師」の意味をペトロもヨハネも解っていなかったのです。しかし神はそのような人間を使徒として大胆に召命したのです。神にできないことは何一つ無いのです。そしてその召命は、命令なのです。強制なのです。絶対なのです。断れないのです。わたしたちに命を与えてくださっている神は、その命を自由自在に操ることができるからです。クリスチャンは主の奴隷なのです。贖い、というのは「身代金を払って買い取る」ことだからです。そしてその買い取りは、既にイエス・キリストの十字架の死と復活を以って既に代価は払われているのです。わたしたちの信仰は、唯一、恵みによるのです。

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。(ヨハネ21章1~23節)

 ペテロたちは再び網を打つ漁師の生活に戻っていました。復活の主だとわかったペテロの喜びようと言ったらないくらいです。ここでも主イエスは最初の召命と同じように大漁の魚によって弟子たちに御自分を見せてくださったのです。そして、三度、主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」とペトロに問うたのです。主イエスはペトロが三度イエスを「しらない」と言ってしまったことを、ペトロが三度主イエスを愛しています、という告白をさせることで、御赦しになられたのです。正確に言えば「ペテロに三度告白させることによって、主イエスがペトロに御赦しになっていることをわからせてくださった」のです。そして、主イエスが天に昇られた後において、いよいよ主の愛の召命に応える伝道の生涯が始まったのです。ところで、ペトロは、ヨハネを指して、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言うのです。この質問は明らかに「蛇足」です。主イエスは「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。主イエスは蛇足の質問にお答えになったのです。それは、これから後、使徒たちは、主イエスと共にいたときのように行動を一つにするのではなく、それぞれの地に、また、それぞれの役割を持って伝道するのだと覚悟しなさい、ということを示されたのです。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、 下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、 太陽は暗くなり、 月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、 わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、 舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、 あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、 その体は朽ち果てることがない』 と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2章14~42節)

 (参照:ヨエル書3章1~5節、詩編16編7~11節、詩編110編1節)わたしたちは、この箇所で御聖霊の力強い働きと、人間ペトロの猛烈な勉強の成果を見ることができます。この説教において三箇所、旧約聖書(当時はまだ新約聖書は無い)からの預言の引用があります。主イエスが預言者たちの書き記したメシアであること、そして十字架の死と復活が、どのような意味を持っていたのかということを、ペトロは御聖霊に導かれながら、メシアとしての主イエスを学んだのです。後の聖書、ペテロの手紙第一の巻末において「シルワノによって」手紙を書いた、とあることから、この学びは文字を読み書きするのではなく、聖書に詳しい人に「主イエスの生涯のどこが誰によってどのようにして預言されていたのか」と尋ねながら、耳で学んだ可能性があります。ともかく主イエスに「わたしの羊を飼いなさい」または「だから、あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と命じられ、これは大役を授かったものだと、懸命になって学んだのかもしれません。これはそうだった可能性がある、ということだけで、ガリラヤ湖の漁師であったことが、すなわち聖書を学んでいなかった、ということを立証するものは、何一つありません。確かなことは、御聖霊の働きによってペトロが「自分の言葉ではなく、神から授かった言葉を宣べ伝えた」ということです。わたしたちが伝道するとき、自分はクリスチャンとして証にならないから、と尻込みする必要はないのです。友人、知人といった隣人に対して愛をもって伝道したいと思ったら、その隣人を「主が招いてくださいますように」と祈ればよいのです。

ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。(使徒言行録3章1~10節)

 生まれつき足が立たない40歳以上[使徒言行録4章22節]の男をペトロはじっと見て「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちなさい」と言って、その男を立たせました。どうしてそのようなことができたのでしょう。「ナザレの人イエス・キリストの名によって」、つまり、「ナザレの人イエスがメシアであることを証明するために」立ち上がり、歩きなさい、と言ったからです。何より、バラバに替わり十字架に磔になったイエスこそが、メシア(=キリスト)であることを証明することが神の御心に叶ったことであり、必要なことだったからです。足が弱かった癒された男もまた、イエスがメシアであることの証人となったのです。わたしたちもこの癒された男と何の違いも無いのです。わたしたちは生まれながらにして、主を知らず、どのようにしたら人生の目的を見出すことができるかわからないイエス・キリストという岩の上に立てないでいる、まさしく、地に足の着いていない者たちだったからです。そのような生い立ちながら、主に招かれたクリスチャンは、洗礼によって、イエス・キリストという岩盤の上に力強く立脚させられ、また、その姿を晒すことにより主イエスの証人となるのです。どんなに弱いクリスチャンでも、与えられた命の意味、人生の目的を持って生きる限り、どんなに尊敬され、人を指導しているノンクリスチャンより、はるかに強いのです。「全能の神の愛の故に使わされた、御子イエス・キリストの死と復活の新しい契約によって、わたしたちは立ち、主の再臨を待ち、死もまた永遠の命の確信を持って怖れない者であり、また、再臨の主イエス・キリストに自分の名が覚えられていることを信じ、かつ、主に覚えられることが人生の唯一の意味だと知っている」からです。そしてわたしたちの主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書16章33節において、主イエスが既に世に勝っていることを宣言してくださっているのです。

さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(使徒言行録3章11~26節)

 (参照:申命記18章15節、創世記22章18節)奇跡は、この神殿での説教の序章でしかありませんでした。「主イエスを十字架に磔にしたイスラエルの民は、無知の故とはいえ、悔い改めなくてはならない、しかし、十字架に磔にされたナザレのイエスをメシアと信じる信仰をもって悔い改めることにより、神は一人ひとりを、悪から離れさせ、祝福に預からせる」。このペトロの説教は福音書のまだ無かった時代における、最初の福音といってもよいでしょう。この説教が語られてすぐに、ペトロとヨハネは牢に入れられてしまいます。彼らも人間、ペトロとヨハネもまた人間です。そこにどのような違いがあるのでしょうか。それは、心の眼が、神を見上げているのか、人間、世間を見ているのかの違いなのです。最近、「空気が読めない人」のことをKYと言ったりしますが、ペトロとヨハネは神殿の場の空気を読んで神殿の場の空気を読むことより、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを優先させたのです。わたしたちは、場の空気を読んで、主の福音を宣べ伝えることに引っ込み思案になってはいないでしょうか。このペテロの説教のように、ドラマティックに語る必要はありません。御心の天になる如く、地にも成させ給え。これでよいのです。充分なのです。そして、側にいればよいのです。なぜなら、主は主のしもべが一人でも増えることを望んでおられるからです。

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、 隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録4章1節~4章20節)

 (参照:詩編118編22節)ここで、牢に入れられたことによって、かえって、ペトロとヨハネは、大逆転の大勝利を収めることになりました。「ナザレの人、イエスこそ、復活の主、救い主キリストである」。この信条より力強い言葉は無いのです。この信条は使徒信条の中に全て収められています。彼らが牢に入れられたのは、彼らのいらだちのためでしたが、翌日受けた尋問は「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」という内容でした。ペトロは聖霊に満たされて、待っていましたとばかり、立て板に水の如く、ナザレの人、イエス・キリストの名によってであり、この方のほかに救い主はいないと、宣言したのです。尋問をした者たちはみな、人の目ばかりを気にしていたがために、押し黙ることしかできなかったのです。この精神は「使徒信条」の中に取り込まれています。ですから、わたしたちは、だれに対しても既に勝っているのです。ただし、「その勝利を主のものとし、自分の功績としないならば」です。ここのところは、全てのクリスチャンが気をつけなければいけないことでしょう。

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(ペテロの手紙第一1章1~2節)

 ここで、「選ばれた人たち」という言葉が使われています。主イエスの十字架の死と復活による贖いの新しい契約が結ばれる前は、イスラエルの民が始祖アブラハムの信仰の故に選民とされていました。いまや、新しい契約によって離散していたユダヤ人にも、異邦人の信者もまた、イエスが救い主であるという信仰の故に、新しい選民になったのです。また、三位一体の神という神学的解釈が、強調されています。「父」である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて「霊」によって聖なる者とされ「イエス・キリスト」に従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです、と書かれています。「三位一体」と「新しい選民」と「恵みと平和」が巻頭に書かれているのです。この初期教会の信仰の原点に帰るべきだと、糾弾したのがプロテスタントなのです。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。(ペテロの手紙第一1章3~12節)

 8節から9節にかけて、ペトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」と書いています。約2000年経った今のクリスチャンもこの状態にあります。わたしたちは、既に与えられている主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じるだけで、信仰の実りとして魂の救いを受けているのです。プレゼントを贈ったら、それ以上のお返しの贈り物を受け取ることは、わたしたちの生活の中でもしばしば起こることですが、神様のプレゼントは、もらっただけで、さらに言葉では言い尽くせないすばらしい喜びというプレゼントをさらにいただくことになるのです。わたしたちの神は無限に「正しい」方であり、無限に「愛する」方なのです。

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。(ペテロの手紙第一1章13節~23節)

 (参照:レビ記11章45~46節)この箇所は、ヨハネ伝の冒頭や、コリント第一の7章から13章にかけて、また、ヨハネの黙示録の冒頭と精神を一つにしていると言ってよいかと思います。「再臨の時が迫っている」ことと、「天地創造の前からいらっしゃった言葉であられる主イエス・キリスト」という精神のことです。わたしたち後代の人間にとって、この二つの精神は信仰生活に欠かせないものです。これらの精神と前述されてある「三位一体の神」の精神が受け告げられなかったとするなら、主イエス・キリストの十字架の贖いは使徒たちが死ぬと同時に、終わってしまった出来事になってしまうのです。この信仰の根本が語り告げられているからこそ、わたしたちの信仰生活は、「この地上に仮住まいする間」なのです。それと同時にペトロは「金や銀などのような朽ち果てるものにはよらず」と語っています。金や銀は普段わたしたちが使っている紙幣に比べれば、はるかに朽ち果てないものです。しかし、主イエス・キリストの十字架の死と、復活による新しい契約に比べれば、金や銀などといったものは、朽ち果てるもの以外の何ものでもないのです。これはまた、地上での仮住まいとしての命と、主から与えられた永遠の命との比較であるともいえるでしょう。朽ち果てる命と、朽ち果てない命です。現代、わたしたちが見ることができるのは、金や銀、朽ち果てる命であり、主イエス・キリストの十字架や永遠の命は、人間の目で見えるものではありません。ペトロは自ら主イエスと共に生きていたときの信仰は、時代と共に消えうせ、御言葉によって生かされる信仰へと転回していかなければ、広く世界に福音を宣べ伝えることはできないということを正しく認識し、この「御言葉としての主イエスの福音」は決して朽ちないということを、預言の引用によって確かな裏付けのあるものとして書き送ったのです。

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、 その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、 花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、 シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、 妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、 今は憐れみを受けている」のです。(ペトロの手紙第一1章24節~2章10節)

 (参照:イザヤ書40章6~8節、イザヤ書28章26節、イザヤ書8章14節、ホセア書1章9節)この1章24節、25節に引用された聖書の言葉は、1章の締めくくりであると同時に、2章に語る事柄の口火であると言ってよいでしょう。ここでペトロは(旧約)聖書の御言葉を自由自在に引用して、次世代の信徒に対して、主イエスこそ聖書に預言された救い主であることを証ししています。次世代以降の信徒に、主イエスを「全ての預言をことごとく成就なされ、再臨を以って全ての預言の成就を完成なされる主」であることを語り継げようとしているのです。ペトロの手紙においてこの姿勢は一貫しています。この二つの手紙は使徒ペトロの最後の任務であり、神から託された遺言状でもあると言えるものなのです。

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。(ペトロの手紙第一11節~17節)

 (参照:イザヤ書53章9節)ここの諭しは、主イエスが語られた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃった御言葉を彷彿とさせます。かつては主イエスのゲツセマネの祈りの後、手下の耳を切り落としてしまったペトロが、円熟し、無用な対立や争い、流血沙汰を避けるように、敬い、服従しなさいと勧告しているのです。このような勧告は、使徒パウロによっても書かれていますが、パウロが「何とかして何人かでも救うためです。」と全ての人の奴隷となった理由を語っている(コリント第一9章)のに対して、ペトロは「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」と述べています。主イエスと共に歩み、全ての人の奴隷となられた主イエスを見ていたこのペトロの勧告は、実体験であり、どんな理屈よりも重みがあるのです。

召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、 その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。(ペトロの手紙第一2章18節~3章7節)

 (参照:詩編34編12~17節)ペトロは主イエスが弟子たちの足を洗った意味を、ここにおいて、はっきり認識し、はっきりと勧告しています。召し使いや、妻と夫の関係もまた「同じように」と語っています。そしてその意味を「神の御心に適う」ことに帰結させています。また、ここでペトロは「主イエスは模範を残された」と言っています。わたしたち人間は主イエスほどのへりくだりを実践することはできないでしょう。ペトロ自身の歩みも、首尾一貫してへりくだったとは言えません。本当のへりくだりは御聖霊の助けがなくてはできないことです。道徳的な謙遜では成しえないへりくだりを主イエスに見いだすとき、わたしたちは、御聖霊の臨在を求め、主に立ち返るのです。ですから、初めから「無理だから」とへりくだりを投げ捨ててはならないのです。これは非常に難しいことです。主イエスのへりくだりは、そういう意味で模範となってくださっているのであり、教会での聖晩餐の意味もまた、そのへりくだりを覚え悔い改めるために、主イエスご自身が信仰の薄い人間のことを覚えて、制定してくださっているのです。

終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。「命を愛し、 幸せな日々を過ごしたい人は、 舌を制して、悪を言わず、 唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、 平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。(ペトロの手紙第一3章8節~22節)

 ここに、ペトロが主イエスと共にいたとき、また使徒言行録に描かれているペトロの実践が生かされています。ペトロが主イエスに問うた答えの「7の70倍まで赦しなさい」もこれに当てはまっていますし、主イエスがファリサイ派、サドカイ派、律法学者たちを黙らせたのも、彼らが主イエスに罪を見いだせなかったためでもありました。また、ペトロがイエス・キリストの名によって足を立たせた後、神殿で福音を宣べ伝えて捕らえられ、尋問にあった際も、ペトロとヨハネが成したことが、主の御心であり、善を成したことであったが故に釈放されたのです。

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。(ペテロの手紙第一4章1節~11節)

 罪の生活からの脱却、世の終末、愛、神の栄光を讃える信仰生活とがここに記されています。初代教会はさまざまな問題を抱えていたことが推測できます。ここでペトロは、正しい信仰生活の勧告、再臨を覚えること、愛し合うこと、神に栄光を帰すことをここで語らなければならなかったことから推測できるのです。そして簡素かつ率直な言葉で、メッセージを述べています。使徒パウロは「キリストの体としての教会(ヨハネによる福音書15章1節~17節、コリントの信徒への手紙第一12章12節~31節)」を主張し、その上で愛について語っていますが、ペトロはそのようなロジックなど関係なく、直接的に「何よりもまず、心をこめて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」と語っています。どちらがどうということではないのです。主に愛されているが故に主を愛すことは、信仰生活においても、教会においても、基本であり核心なのです。神御自身が愛だからです。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、 不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。(ペトロの手紙第一4章1~11節)

 (参照:箴言11章31節)ここに言い表されている、「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」の記述は、使徒言行録3章、4章において「初めの福音」と、直後、取調べにおいて聖霊の働きがペトロの口を通して語られたことの経験と、無関係ではないと考えられます。ペトロ自身の実体験に裏付けられて実感をもって語られたものだと思われます。試練を喜びに変えてくださるのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活の贖いの確信であり、試練を喜びに変えてくださるのは主イエス・キリスト御自身が苦しまれたからです。その逆説的な勝利と喜びによって、主イエス・キリストの福音は、消え去ることなくわたしたちの元にも届いているのです。

さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。(ペトロの手紙第一5章1~11節)

 (参照:箴言3章34節)ペトロは主イエスに「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。「イエスの羊を飼う」ことが、主イエスの弟子たちまでで止まってしまってはならないのです。主が「わたしは世の終わるまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われている限り、代々、羊を牧し、新たな羊を獲得し、またその中から聖霊によって召命を受け、羊を飼う者が出なければなりません。また、信徒へも謙遜になるように諭し、神に一切をゆだねるようにと勧告しているのです。

わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。 (ペトロの手紙第一5章12~14節)

 ペトロはこのように口述筆記によって手紙を書き、神のまことの恵みの証人となりました。

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。(ペテロの手紙第二1章1~15節)

 ペトロはまず2節によって、新しい信者を「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たち」と呼びました。これは、主イエスを直接見たかどうかではなく、その信仰によって十二弟子と同じだ、と言っているのです。その信仰が自ら獲得されたものではないことを、「信仰を受けた人たち」と呼んでいるのです。ここのところは、クリスチャンにおいてとても大切なことです。恵みによって既に与えられた贖罪をわたしたち自身の功績であるかのように思い、または行動することは、唯一の神に対する侮辱だからです。この短い一節に、新しい契約によって救われたクリスチャンの取るべき態度が凝縮されているのです。そして、雄弁に「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」と語るのです。兄弟愛は「フィレオー」という単語であり、愛は「アガペー」という単語です。「エロス」の愛は聖書では使われていないのだそうです。ともかくとして、主イエス・キリストを共に信ずる教会の兄弟姉妹の兄弟愛(フィレオー)に、主イエス・キリストが示してくださった愛(アガペー)を加えなさいと言っているのです。常に、御子主イエス・キリストを十字架を磔にして贖いとしてくださった究極の愛をわたしたちは既に招かれて洗礼・聖晩餐をいただいている群れ(教会)なのだから、その愛に応えて互いにその愛を用いよう、ということなのです。ペトロは既に諸地方の教会がそのようなことを知っているのだけれど、それでも、このことは言わずいられない、といっているのです。何故か、ということをペトロは、こういい残しています。「自分が仮の宿を間もなく離れなければならないことを知っているからです」。主の再臨まで、主イエス・キリストの愛が教会に満ちているようにと、ペトロはどうしても言い残しておきたかったのです。

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙第二1章16~21節)

 ペトロは、変貌山での主イエス・キリストの証人として、主イエス・キリストが、父なる神の御子であることを証し、全ての預言者が預言していたメシアであることを再度示しました。そして預言は勝手に解釈してはならない、と次に述べているのです。ここに、イエスを三度「知らない」と言ってしまった、ペトロの心底からの痛感が垣間見えるのです。

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、 「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、 「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。(ペトロの手紙第二2章1~22節)

 偽預言者はいつの時代でも現れるものです。では、どうしたら見分けがつくのでしょうか。その答えがここにあります。「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」と書いてあるとおりです。わたしたちの主は、無限に「正しく」、無限に「愛する」お方(ヨハネによる福音書17章24~25節)なのです。その主が派遣される真実な預言者は、義と愛をもっており、厚かましくもわがままでもなく、先に派遣された預言者をそしらないのです。

愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。(ペトロの手紙第二3章1~18節)

 神学的に教養の高い使徒パウロの書簡は、時に難解で誤解を招き、聖書とパウロの言葉を曲解してつまずいてしまう人があったようです。ペトロは、そのような自ら滅びを招く信徒の無学も充分に解る使徒であったことでしょう。自分自身がガリラヤの漁師から主イエスの弟子となり、使徒として召命され、初代教会を築き、年配の長老として務めを果たすこととなった人だったからこそ、自分の死後の教会へのバトンタッチを簡潔な文章で書き送ったのだと考えられます。ペトロの言葉は慈愛に満ち、成熟した解り易い言葉としてわたしたちの心へと届くのではないでしょうか。新旧約聖書は、ことごとく主イエス・キリストの証言であることはもちろんですが、信徒としての歩みもまたこのペトロの生涯から大いに学ぶことができるのです。迫害の時代に入ってなお、このように温和でいられたのは、主イエスのこの御言葉が、ペトロに豊かに注がれていたことを充分に物語っています。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。
(ヨハネによる福音書14章27節)


預言


新約箇所 旧約箇所 内容 備考
マタイ1:23 イザヤ7:14 受胎告知   
マタイ2:6 ミカ5:1 ベツレヘム   
マタイ2:15 ホセア11:1 エジプトからの帰還   
マタイ2:18 エレミヤ31:15 二歳以下の男子殺戮   
マタイ2:13 イザヤ11:1 ナザレの人 発音
マタイ3:3 イザヤ40:3 洗礼者ヨハネ   
マタイ4:15,16 イザヤ8:23b,9:1 カファルナウム移住   
マタイ11:10 マラキ3:1 洗礼者ヨハネ   
マタイ11:14 マラキ3:23 エリヤ再来(ヨハネ)   
10 マタイ12:18-21 イザヤ42:1-4 異邦人の主イエス   
11 マタイ13:14,15 イザヤ6:9,10 たとえ話で話す   
12 マタイ13:35 詩編78:2 たとえ話 アサフ
13 マタイ15:8,9 イザヤ29:13 偽善者の預言   
14 マタイ21:5,イザヤ62:11 ゼカリヤ9:9 ろば(エルサレム入城)   
15 マタイ26:31 ゼカリヤ13:7 羊飼いを打つ   
16 マタイ27:9 ゼカリヤ11:12,13 銀貨30枚   
17 マタイ27:10 エレミヤ18:2,19:2,19:11,33:6-9 陶器師の畑を買った   
18 マルコ1:2 マラキ3:1 洗礼者ヨハネ   
19 マルコ1:3 イザヤ40:3 洗礼者ヨハネ   
20 マルコ7:6,7 イザヤ29:13 偽善者の預言   
21 マルコ11:17 エレミヤ7:11 強盗の巣   
22 マルコ14:27 ゼカリヤ13:7 弟子たちの離散   
23 ルカ1:17 マラキ3:24 整えられた民の用意   
24 ルカ2:30 イザヤ52:10 救い   
25 ルカ2:32 イザヤ42:6,49:6 万民の救い   
26 ルカ3:4-6 イザヤ40:3-5 洗礼者ヨハネ   
27 ルカ4:21 イザヤ61:1 主の顕現   
28 ルカ7:27 マラキ3:1 洗礼者ヨハネ   
29 ルカ19:46 エレミヤ7:11 強盗の巣   
30 ヨハネ1:23 イザヤ40:3 洗礼者ヨハネ   
31 ヨハネ2:17 詩編69:10 宮清め ダビデ
32 ヨハネ7:42 詩編89:4,5ミカ5:1 ベツレヘム エタン
33 ヨハネ12:15 ゼカリヤ9:9 ろば(エルサレム入城)   
34 ヨハネ12:38 イザヤ53:1 群衆の不信仰   
35 ヨハネ12:40 イザヤ6:10 かたくなな民   
36 ヨハネ13:18 詩編41:10 ユダの裏切り ダビデ
37 ヨハネ19:24 詩編22:19 着物のくじ引き ダビデ
38 ヨハネ19:28 詩編69:22 「わたしは渇く」 ダビデ
39 ヨハネ19:36 詩編34:21 脛が折られない ダビデ
40 ヨハネ19:37 ゼカリヤ12:10 刺し貫かれる   
41 使徒1:20 詩編69:26 ユダの死 ダビデ
42 使徒1:20 詩編109:8 ユダの代職 ダビデ
43 使徒2:17-21 ヨエル3:1-5 ペンテコステ   
44 使徒2:25-28 詩編16:8-11 復活 ダビデ
45 使徒2:34,35 詩編110:1 父なる神の右に座す ダビデ
46 使徒4:25,26 詩編2:1,2 指導者はキリストに反抗する   
47 使徒7:42,43 アモス5:25-27 民の不信仰   
48 使徒7:49,50 イザヤ66:1,2 手で造った家に住まわれない   


 ダビデによる詩編による預言は、ヨハネによる福音書と、使徒言行録のペトロの説教に多く見られます。これらの中には、ダビデ自身にイエス・キリストが投影されているもの(31,37,38,44)と、明らかに預言として語られているもの(45)、その他(36,39,42)があります。特に詩編22編は全節にわたり主イエスの受難を語っていると言えるでしょう。
 以下、旧約聖書によって預言されている福音をおおよそ時系列的にまとめます。

受胎告知 イザヤ7:14
ベツレヘムでの降誕 ミカ5:1
救い イザヤ52:10
万民の救い イザヤ42:6,49:6,53:12
エジプトからの帰還 ホセア11:1
二歳以下の男子殺戮 エレミヤ31:15
洗礼者ヨハネ イザヤ40:3-5,マラキ3:1
エリヤ再来 マラキ3:23
ガリラヤでの宣教 イザヤ8:23b,9:1
病人の癒し イザヤ53:3
貧しいものへの福音 イザヤ61:1
たとえ話で話す イザヤ6:9,10
偽善者の預言 イザヤ29:13
エルサレム入城 ゼカリヤ9:9,イザヤ62:11
宮清め エレミヤ7:11,詩編69:10
群衆の不信仰 イザヤ53:1
かたくなな民 イザヤ6:10
ユダの裏切り 詩編41:10
銀貨30枚 ゼカリヤ11:12,13
ゲツセマネの祈り 詩編22:1-32
ポンテオ・ピラトのもとでの受難 イザヤ53:7
着物のくじ引き 詩編22:19
「わたしは渇く」 詩編69:22
十字架の死 イザヤ53:8
脛が折られない 詩編34:21
刺し貫かれる ゼカリヤ12:10
議員ヨセフの墓に葬られる イザヤ53:9
復活 詩編16:8-11
父なる神の右に座す 詩編110:1
ペンテコステ ヨエル3:1-5
身体のよみがえり エゼキエル37:1-14
神の国の完成 イザヤ65:17,66:22


疑いの眼差しで


 これから思考実験をしようと思います。「疑いの眼差しで」と表題をつけましたが、これは聖書の記述を疑ってみよう、という主旨ではありません。礼拝において、人間の脳はどのような癒しと平安が訪れるのか、科学で説明しきれるがどうなのか、という主旨で考えてみようと思います。

1.讃美歌の力
 教会は讃美の歌声と共に歩んできました。もっともその原型は詩編の歌をイスラエルの民が歌っていたことに始まります。実体験としてオルガンの音に癒される、ということもあるでしょう。オルガンの音色は倍音が豊かで、人間が心地よいと感じる4000Hz以上の音に満ち溢れています。また、声を合わせて歌うことにも喜びがある、ということに目を留める必要があるでしょう。信心が無くても、合唱に心惹かれ、また合唱団の一員として音楽に傾倒される方々も多く居るのです。礼拝における讃美の歌声は、神の御前に共に集うという信仰にあってその喜びはさらに倍加するのです。
2.説教の力
 教会の説教とは戒めではありません。福音、つまり良い知らせを語るものです。これは、これだけでも脳にとって喜ばしいことです。さらに、牧師、伝道師は、聖書の御言葉に、新しい視点をもって、会衆に語りかけるのです。このことによって人間の脳にはA ha!体験が起きるのです。聖書を読むことはつまらない、と思う方が多いことは周知の事実です。しかし、信仰に基づいて神の言葉に傾聴しようとするならば、あの電話帳のように分厚い本は、無尽蔵のメッセージが与えられる「面白い本」になるのです。
3.祈りの力
 皆が心を一つにする、ということは、世間にそうありふれたものではありません。人は、心を一つにするを快感を覚える動物なのです。連帯の中にいる獣なのです。
4.洗礼の力
 キリストに在って新しく生まれ変わることの象徴です。洗礼なしに教会は成り立ちませんが、洗礼によって救われるとは聖書の何処にも語られていません。救いの記念として洗礼があるのです。しかし、ここに確信があるのです。人間は自分の欠けの多さに嘆くことが多いでしょう。それでも、洗礼を一度受けた者は潔い者とされている、という確信に立つことができるようにするために洗礼があるのです。
5.聖餐の力
 これは、洗礼を受けた者が、自分を贖ってくださった主イエスに目を向けなおし、主の死を告げ知らされるための儀式です。聖餐なしに教会は成立しません。
6.よみがえりの信仰の力
 現代の世において永遠の命など興味が無い、という方々が多いのではないでしょうか。しかし、このよみがえりの信仰は、逆境においてますます切実なものとなるのです。苦しいときほど、信仰が弱まるどころか、かえって確かなものとなるのです。ここにキリストの逆説があるのです。
7.神に繋がる力
 人間は絶対的なものに拠り頼んでいくときに安心と力が湧いてくるのです。

 では、聖書にはこれらのことについて、どのように語っているのでしょうか。イエス御自身がこのように語っています。

 聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。(マタイによる福音書21章14節)
 全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコによる福音書16章15節)
 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイによる福音書18章20節)
 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしわたしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書28章18~20節)
 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(ルカによる福音書22章20節)
 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11章25節)
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネによる福音書15章1~17節)

 さて、本題はここからです。自己複製をする言葉をミームと呼びます。キリスト教はミームです。出来過ぎなほどよくできたミームです。だからこそ2000年の長きにわたって受け継がれてきたのです。その中心にあるのは教会です。パウロはこの教会の形成に心血を注いで伝道活動をしてきました。キリストは何故できすぎなくらいのミームでありえたのでしょうか。パウロ書簡に聴いてみたいと思います。

 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙5章19節)
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマの信徒への手紙1章16節)
 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(エフェソの信徒への手紙4章6節)
 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマの信徒への手紙10章10~13節)わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマの信徒への手紙6章4節)
 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(コリントの信徒への手紙一11章23~29節)
 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。
 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙一12章12~13章7節)

 わたしが考えてみたいのは、この完全なミームが人の手によるものだろうか、ということです。神の存在を証明しようとするものではありません。ホモ・サピエンスが1.歌を歌い、2.自分の受けて喜びを隣人に伝えようとし、3.心を一つにすることを楽しみとし、4.全ての契約が言葉によってなされ、5.自分の受けた恩を容易に忘れ、6.逆境において天国に思いを馳せ、7.帰依することを好み、群れを成して生きる、という人間の傾向性は、単なる偶然の一致なのでしょうか。わたし個人の思いとしては、神は居り、救いの契約が語り告げられるように、初めから人間をそのようにお創りになられたのではないか、ということです。以上、私見です。


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