あなたは今日、私と一緒に

イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

ルカによる福音書23章43節

 聖書の記述の真偽については高等批評の立場から今日ご紹介する箇所もフィクションとの指摘がありますが、ここでは福音、すなわち良い知らせを豊かに受け取るために仮説や推論を交えてお話しします。ルカによる福音書をテキストとして、最初にこの世に不条理や秩序の不足を感じて真の条理、真の秩序、真の権威を求めておられる方に、次にこの世の条理・秩序・権威についていけず、あるいは反発を感じて苦労なさっておられる方に向けて「良い知らせ」をお伝えし、最後に、救いとは何か、ということについてお示ししたいと存じます。

権威の下に

 ルカによる福音書7章1-10節には、主イエスが百人隊長の僕(しもべ)を癒し、群衆に向かって百人隊長の信仰を「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と称賛したことが書かれています。この百人隊長はローマ帝国直属の軍人とみるよりも、属領を治めるヘロデ・アンティパスの指揮下の軍人とみるほうが妥当なようです。百人隊長とは、その名の通り百人の兵卒を率いていた軍人です。いずれにしても異邦人であってユダヤ人ではありません。彼は、ユダヤ人の信仰に深い理解を示し、会堂を寄進していました。それなりの財力があるとはいえ、異邦人が会堂を寄進するというのはすごいことです。ある時、信頼を置いていたしもべが病気で死にかかり、ユダヤ人の長老たちを介して主イエスに来てくださるようにお願いしました。長老たちは会堂を寄進してくれた百人隊長の願いを熱心に主イエスに訴えました。ところが、主イエスが百人隊長の家に向かう途中で、友人を使いにやって「自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。」と申し出たのです。「わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」と理由を述べて、だから「ただ、お言葉をください」と伝言しました。この友人が家に戻ると、百人隊長の僕は癒されていました。

 主イエスに「イスラエルの中でも見たことがない」とまでその信仰を褒められた異邦人の百人隊長は、そもそもユダヤ人と信仰を共にすることはできなかったのでしょうか。ユダヤ教は必ずしもユダヤ人の家庭のもとに生まれた者だけの宗教ではありません。割礼を受けて律法を守ればユダヤ教に改宗することができました。しかし、百人隊長はそうしなかったのです。彼が神の権威を正しく理解することに役立っていた軍人ならではの見識が、むしろ、自分の置かれている立場と神の権威と間の絶対的な断絶を彼に感じさせていたのです。当時のローマ帝国による属州の支配は盤石で、軍事的に言えばとても平和な時代でした。軍人として一生勤めあげても、おそらく戦場で指揮を執ることなどなかったことでしょう。しかし、彼の軍人としての最大の任務は戦場で百人の兵卒を指揮することです。部下に人を殺せと命じることです。その日がユダヤの安息日であっても、いつでも上官の命令に従って部下に命令を下せるように備えることが彼の軍人としての任務だったのです。後でお話しする十字架刑の執行の場面でも兵士が登場しますし、後の時代にはユダヤ戦争もありました。そうした事態はありえたのです。彼は自分の任務に対して忠実であるがために、どうしてもユダヤ教に改宗することをよしとすることができなかったのです。

 主イエスがこの百人隊長の信仰を褒めたとき、もし、順序を付けるとしたら、まず何を褒めたでしょうか。自分の任務に忠実であったことは最後です。軍隊の秩序と権威と指揮命令になぞらえて、神の秩序と権威と宣言の力とを正しく理解していたことの方が重要です。しかし、一番重要なのは、彼が軍人としての任務に忠実であり、異邦人である限り、神の権威の下に服することなど適わないのだ、と自分と神との間に絶対的な断絶があることを認識していたことです。「自分でお迎えにあがるねうちさえない」という告白です。それと同時に、 理由として告白された宣言の力に対する絶対の信頼です。主イエスは、日々の生活において律法を守り、自分は神の掟に忠実に従えていると思っていたユダヤ人の信仰よりも、この異邦人の軍人の信仰の方がはるかに優れていると仰ったのです。

 主イエスの教えは、あなたの置かれた立場にあなたを縛りつけるものではありません。しかし、あなたが自分の置かれた立場に忠実であることは、神の権威を理解するうえでとても役に立ちます。そして、大切なのは、自分は神の権威の下に置かれるには相応しくない者であるという、へりくだった認識を持つことです。この世のどんな条理、秩序、権威からも遥かに遠い高みに神の条理、神の秩序、神の権威はあるのだ、という断絶の認識です。そして言葉の力、宣言の力を信じることです。自分は神のご支配に相応しくない者であるという認識と告白に至るとき、神のほうから待ってましたと、あなたは神の権威に在って神の国に相応しい者であるとお認めになり、あなたに近づいて、あなたを救ったと宣言し、あなたと共にいてくださるようになるのです。

人の道にこぼれても

 ルカによる福音書7章36-50節には、主イエスの足に香油を塗った罪深い女を救ったことが書かれています。伝承として、この女は売春婦であったと伝えられてきました。しかし、福音書にはこの逸話の最初に「罪の女」とだけ記され、また、パリサイ人(ファリサイ派の人)が「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と思ったと書かれています。この女は他人から見て罪深い女でした。評判の悪い女、一般通念的に見て人の道にこぼれていた女、ということだったのでしょう。律法、道徳、美徳、婚姻制度、貞操観念、正当な労働の対価など、あらゆる尺度に照らし合わせて、ことごとく落第していた人であった、そう捉えておきましょう。つぼに入った高価な香油も、それを買ったお金はあまり出どころの良いお金ではなかったかもしれません。「香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」と書かれています。「女の武器」という言葉もあるように、この人も涙を流すことは得意だったかもわかりませんが、足をぬらすというのは並大抵の量の涙ではありません。この人の思いとは何だったのでしょう。高価な香油をイエスの足に塗れば何か助けてくれるだろう、ということではなかったはずです。もし後ろめたいお金で買ったものなら、なおさらそういった行為で許しを請おうという考えには至らなかったことでしょう。この人は周りの人々から罪深い人と白眼視され、何度となく自分で真っ当な人間として立ち直ろうとしたかもしれません。しかし、自分の力ではどうすることもできなかったのです。「私は何をやっても立ち直れません。自分ではどうすることもできません」という思いが主イエスの足をぬらすほどの涙を流させたのだと受け取りたいと思います。

 この人が主イエスに託したものは、心の重さ、それしかありません。主イエスが町に来たと聞いて、この心の重さを支え、救ってくださるのはこのかたしかいない、と感じたのでしょう。これまで稼いできた汚いお金をすべて捨てるようにして、つぼ一杯の香油を買ってきたのかもしれません。香油は主イエスを讃えるに相応しいものというよりも、これまで自分が犯してきた罪そのものだったのです。主イエスはご自分を招いた宴の主催者のシモンに対してこの女のことを「多く愛した」と表現しました。投げ出された心の重さに対して自分を信頼して打ち明けてくれたことに対する感謝で応答するというのは、臨床心理のテクニックとしてもあることです。しかし、主イエスは「あなたの罪はゆるされた」「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と宣言なさいました。宴の席の者たちには「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」という動揺が走りました。「あなたの罪はゆるされた」というのは臨床心理士の言うような言葉ではありません。宣言することは彼らの仕事ではありませんし、宣言できる権威も持っていません。この宣言は、罪をゆるすことのできる神の業として、この箇所に記述されているのです。

 ところで、この一部始終の間に主イエスと主イエスを招いたシモンとの会話が記されています。主イエスはシモンの心を見通して「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリをかりていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と問いかけます。一デナリというのは労働者や一兵卒の日当です。女が買ってきた香油がだいたい五百デナリくらいの値段のものだったのかもしれません。しかし、ここでの五百デナリ、五十デナリというのは神の目から見た人間の罪の重さではなく、罪をゆるしてもらって軽くなった分の心の重さのたとえです。主イエスを招いたシモンは自分が主イエスに罪をゆるしてもらったなどとは思っていません。主イエスは「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」と仰いました。「少しだけしか愛さない」と指摘しつつ「少しだけゆるされた」とも仰っているのです。先にお話しした、神の権威と宣言の力に対する理解についていえば、香油を塗った女も主イエスを招いたシモンも理解していません。神が先に「あなたの罪はゆるされた」と宣言なされ、人間はその瞬間から罪のゆるしを感じ始めて、やがてその罪が五百デナリどころのものではなかったことを思い知らされるのです。鋭い洞察を持っていた百人隊長も、人間的なあらゆる尺度からこぼれ落ちていた香油を塗った女も、罪に対して鈍感だった宴の主催者のシモンも、神の目には罪の程度は似たりよったりであって、そのゆるしは等しいのです。人間はゆるされた瞬間に自分自身の罪の認識に応分のゆるしを感じます。そしてやがて当初感じた罪の重さよりも、はるかに多くの罪をゆるされたことに気づき、より深く神を愛するようになるのです。もし、この順序が逆であったならば、人間は罪の重さの重圧につぶされてしまって生きていくことすらままならないのです。

宣言の力

 ルカによる福音書23章32-43節には、主イエスが十字架上でひとりの犯罪人に「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と仰った話が書かれています。この犯罪人は「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言いました。十字架刑はローマ帝国に対する罪への刑罰であり、律法に反する行為への刑罰はユダヤ人の手に委ねられていました。主イエスの両隣の二人の犯罪人は、政治犯、革命家であったと考えるのが自然です。主イエスの罪状書きも「ユダヤ人の王」でした。十字架上のこの犯罪人は主イエスが「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と仰っていたのを聞いていたのでしょう。同時に民衆や兵卒が「神のキリスト、ユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と言うのを見ていました。もうひとりの犯罪人も「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言いました。救い主キリストだと信じて言ったのではありません。民衆の声に乗っかって十字架の苦しみを隣の主イエスに対して八つ当たりしたのです。それをたしなめた犯罪人は、これまで、自分の罪を心底悔やんでいたのでしょうか。以前から主イエスをキリストと認めていたのでしょうか。おそらくそうではなく「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、神を父と呼び、人々の罪を執り成す主イエスの言葉と態度を目の当たりにして「このかたは何も悪いことをしたのではない」ことを直感し、恐れおののいたのだと思われます。民衆や兵卒が騒ぎ立てている中でいったい誰がこの一部始終を見聞きしていたのか、ということはここでは論じません。福音、すなわち「良い知らせ」として書かれている内容に目を向け、その言葉に耳を傾けたいのです。政治犯としてローマ帝国に対して犯した罪を悔い改めたかについては疑問です。政治犯、革命家なら死に至るまで己の信条に従い、堂々と刑死するのが筋でしょう。ここで強調されているのは神に対する罪です。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」と書かれているということは、この福音書の著者が、神に対する罪と神への恐れとに読者の注意を引きつけようとしたことのあらわれだと考えるのが妥当でしょう。「自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」というのは神の前に自分を全否定する言葉です。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」というのは、死ぬときに私を一緒に天国に連れて行ってください、というのとは違います。この世の権力に裁かれ十字架刑に処されている主イエスに対して、全人類を審く神の子としてあらわれる再臨の時に私を思い出してください、と願っているのです。十字架に磔になった犯罪人は、何らかの行動を起こせたのではありません。苦しみ悶えつつ、主イエスに言葉を伝えることができただけです。主イエスもまた、この犯罪人に対して言葉をかける以外のことは何もしていません。主イエスは「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と仰いました。「よく言っておくが」と訳されているのは「アーメン」という言葉です。「パラダイス」とはエデンの園のことです。このパラダイスは死んだ魂の行き先のことではありません。罪がゆるされた人間が神と共に在る場所です。「わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と述べられていることがそれを強調しています。

 さて、言葉の真ん中を飛ばしてお話しました。「あなたはきょう」と述べられている意味を受け取りたいと思います。聖書の記述ではたしかに、主イエスも、ふたりの犯罪人もこの日のうちに息を引き取っています。十字架刑というのは本来、長い時間苦しみを与えて数日かけてゆっくり殺す刑罰ですが、主イエスはその日のうちに息を引き取り、残りの犯罪人もヨハネによる福音書によれば、刑の執行半ばにして日没前に脛を折られて殺されます。旧約聖書申命記21章22-23節に「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない」という律法があったためですが、ルカによる福音書がふたりの犯罪人についてその日のうちに死んだと書いていなくても話は同じことです。ユダヤの一日は日没から始まりますが、翌日まで生きていたなら、死んだ魂が天国に召されたという記述ではないことになります。その日に死んだ、あるいはいつ死んだとしても、ふたりの犯罪人も、主イエスもまた、神にのろわれた者として死んだのだという記述なのです。死んだ魂が天国に行く、あるいは行ったのではありません。ひとりの犯罪人が「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願い出たのに対して、主イエスは、十字架に磔になったまま「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と仰ったのです。十字架の苦しみのうちのどこにパラダイス、エデンの園、天国があったのでしょうか。これは主イエスの宣言です。宣言したと同時に、それはそこに在るのです。この瞬間にひとりの犯罪人の神に対する罪がゆるされ、救われたのです。救いが一瞬のうちに完成し、人間が神と共に在るという現実が訪れたのです。これが神の宣言の力です。この箇所は、読者に対してそのように読み取ってほしいという意図をもって書かれている、と受け取りたいのです。神と言葉がイコールであるということについては、ヨハネによる福音書1章により直接的で鮮明な記述があるのですが、非常に抽象的で哲学的でもあるので、ここでは、ゆるす側もゆるされる側も身動きが取れず死ぬほかない、この十字架上での救いのエピソードを選んで、神の宣言の力についてお話しいたしました。

誰でもその瞬間から

 規律正しい百人隊長にも、自力では更生できなかったであろう罪の女にも、刑死の直前に信仰が与えられた犯罪人にも、主イエスの言葉によって、その瞬間に救いがもたらされました。ものの理を弁えた聡明な人も、人の道をまっすぐ歩くことのできない性分の人も、世の在り方に対して反逆していた人も、みな一瞬にして救われました。福音書の他の箇所でも主イエスの言葉によって大勢の人が癒され、歩けなかった者もたちどころに立って歩けるようになったと記されています。私たちのうちの多くは、これらのうちのどれかにぴったり当てはまるというよりも、それぞれの要素をいくらかずつ抱えて生きているのだと思います。主イエスが人間として生きて、そこに居合わせた人だけが救いにあずかれるのではありません。神と自分との絶対的な断絶に気づいて主イエスの名において己の全体重をかけて寄りかかるだけで、神ご自身が「あなたは救われた」と宣言してくださるのです。救いの宣言の力に主イエスが肉体を伴ってそこにおられるか否かは関係ないのです。主イエスを招いて宴を開いたシモンのように、御言葉に触れ、主と交わりの機会を持つだけで既に少しゆるされているかもしれませんが、すべてを投げ出せば、すべてがゆるされて返ってきます。神はいつもあなたに先回りしてあなたを招いておられるのです。

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

ヨハネの第一の手紙4章19節

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